文章から入ってきたイメージはきっと本物に触れた時、
様々な形に変化していくものだと思います。
| そしてその過程がとても大切な気がします......。 | |
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風景画家として知られる東山魁夷。 私が彼の作品の中で最初の出合いとなった絵は 「光昏」という作品です。 あまりにも鮮烈で、何とも言い難い印象が そこにはありました。 それは私の今迄の日本画に対する思いを 全て否定する出会いであったのは 確かです。→ |
私は彼の作品をみると木々の揺らめき、 風の音、生暖かい日ざし....など 体全体にその風景の環境まで感じ取れて、 まるで錯角におちいるような感覚になります。 でもその一方ただの素朴な風景画のような 気もするのです。 だからこそ、そのギャップに引き込まれていく ような気がします。 その矛盾を追求しようと試みていくうちに もう二度と抜けだせない東山魁夷が描いた森の中に 迷いこんでしまったのかもしれません。 |
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「私は画家である前に人間である」と彼は 言っています。 そしてこう続いています。 「私は人間的な感動が基底に無くて、風景を 美しいと見ることはあり得ないと信じている。 風景はいわば人間の心の祈りである。 私は清澄な風景を描きたいと思っている。 汚染され、荒らされた風景が、人間の心の救い であり得るはずが無い。 風景は心の鏡である。 庭はその家に住む人の心を最もよく表すものであり、 山林にも田園にもそこに住む 人々の心が映し出されている。 河も海も同じである。 その国の風景はその国民の心を象徴するといえよう。」→ |
人間的な感動というのは人によって様々だと思います。 でも、清澄な風景を美しいと思うのは 健全な人の心をもつ証のような気がします。 道ばたに落ちている木の葉をみて秋の訪れを感じたり、 波の行き交う音を聴いて夏の涼しさを味わったり....。 流行は留まることなく変化しているのに、 不思議と毎年必ずやってくる自然の風景には 年を重ねるごと感動が深まるばかりのような気がします。 そして、この感動が当然のように感じていたけれど 実は神様が人間に与えてくれた救いとなる感情では ないのかと感じました |
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日本的でもあり、洋的な要素も感じられる 東山魁夷の絵の中にはほとんどといっていいほど、 人物が見当たりません。 それに対して彼はこう語っています。 「私が好んで描くのは、人跡未踏といった景観ではなく、 人間の息吹がどこかに感じられる風景が多い。 しかし、私の風景の中に人物がでてくることは、 まず、無いと言ってよい。 その理由の一つは、私が描くのは人間の心の象徴としての 風景であり、風景自体が人間の心を語っているからである。」→ |
私は彼の作品に心のゆとりを感じます。 心のゆとりをもつことによって、 優しさと謙虚さが生まれるのだと思います。 それは決して時間があるわけではなく裕福であるわけでも無く、 素直であることだと思います。 そしてそれはとても難しいことかもしれません... |
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最後にとても印象深かった彼の文章を紹介します。
「私は私の意志でうまれてきたわけではなく、また、 死ぬということも私の意志ではないだろう。 こうして、いま生きているというのも、 はっきりと意志が働いていきているわけでもないようだ。 したがって絵を描くということも......... 私は何を言おうとしているのか。 力を尽くして誠実に生きるということを 尊いと思い、それのみが、私の生きている唯一の 意義であるはずだと思ってはいるのだが。 それは、上述の認識を前提とした上でのことである。 (右に続く) |
私は生かされている。 野の草と同じである。路傍の小石とも同じである。 生かされているという宿命の中で、 せいいっぱい生きたいと思っている。 せいいっぱい生きるなどということは難しいことだが、 生かされているという認識によって、いくらか救われる。」 |
